卓話②「87年の記録」

2025年9月12日(金)の例会で第2回目の卓話を行いました。
今回の卓話者は田中会員に行っていただきました。
テーマは87年の記録と題して田中会員が生きてこられた87年間についてお話をお聞かせいただきました。 ~以下より田中会員コメント~


誕生、進学
田中会員は1938年(昭和13年)阿武山のふもとの奈佐原村(現在の奈佐原)で誕生した。
当時は旧徳川幕府300年の直割地で帯刀が許されていた。日中戦争から第二次世界大戦中で昭和20年小学校入学時は、国民学校と呼ばれていた。戦後阿武野小学校に改名された。
同年8月6日広島、9日長崎に原爆が投下され、8月15日に終戦を迎えた。
小学2年生12月に昭和南海地震、4年生6月に福井地震があり各地で大きな被害を受けた。昭和25年高槻中学、28年高槻高校に進学。中学生の時、白黒テレビが発売、大阪にジェーン台風が直撃、高校生の時、朝鮮戦争が勃発した。昭和31年、京都工芸繊維大学入学、35年3月卒業。昭和34年9月に伊勢湾台風が名古屋地方を直撃、大きな被害を受けた。



就職
1960年(昭和35年)4月、呉羽紡績株式会社入社、赴任先は長野県北安曇野豊科工場、北アルプスの麓にあり冬はスキー、春夏秋は登山と最高のロケーションで青春を謳歌した。この時代、人生最大の人物との出会いがあり生涯の友となった。
後の総理大臣、故橋本龍太郎氏。同室で1年間寝食を共にしながら工場生活をエンジョイした。特に登山歴は父親譲りで北アルプス登山を楽しませてくれた。彼とは同期の桜で当方は技術系、彼は事務系での組み合わせでもあった。博識の彼から得た教訓は今もなお生きている。彼との最後の出会いは衆議院選挙応援演説で高槻駅北の広場で当時の瀧井会員(父)の計らいで言葉を交わした事が今も忘れられない。この時期カラーテレビが登場。



1988年(昭和63年)に東洋紡績を退社し、同年4月に有限会社テイエスアイを設立と高槻東ロータリークラブへ入会。
9月にテニスガーデン高槻をオープンしました。
2016年(平成28年)9月に現役を引退し会長職として現在に至っております。


幼少期には第二次世界大戦や原爆投下などの混乱の時代を経験し後の高度経済成長期、大阪万博、オイルショックと数えきれないほどの出来事を経験された87年間を卓話内でお話しいただきました。



